小倉城下町散策1(春巴)

西日本新聞社の企画で、北九州市の小倉城下町を散策しながらの講義をいたしました。みなさん、とても熱心に聞いてくださり、日頃いい加減にしている私も身の引き締まる思いがして、気合を入れてお話ししました。その時のことを、数回に分けて新聞に毎週連載してくださるので、その紹介と、補足説明をいたします。(掲載記事は2015年11月28日、西日本新聞より)

小倉城下町1_0001のコピー

江戸時代には、呉服商や紙問屋をしていましたが、明治時代になり、ひいおじいさんんの代には、文具や便箋などを作る「藤本文具」という屋号になりました。かなり繁盛していたようで、ひいおじいさんや、ひいひいおじいさんの名前が、長者番付に載っていました。戦後は、他者に会社を売却し、私は後を継いでいませんが、今でもその会社は立派に商売をなさっているということです。子供の頃、「うちは、ふじもとではなくて、ふち”もとで、ちに点々ですから間違わないように!」とよく言われたものでした。

結婚式資料(昭和2年)

お店は、小倉城下の魚町(うおまち)というところにありました。名前は魚町ですが、魚町1丁目には、魚屋は3件で、明治時代に2件は廃業し、のちにその1件が小倉の魚市場に発展していったということです。私のおばあさんは、その家の5姉妹の3女として生まれ、昭和2年4月に結婚しました。その頃、日本では銀行の取り付け騒ぎが起こり、モラトリアムが発令され、銀行は営業停止中で、結婚式などの費用の現金を用意するのに苦労したということです。当時の記録を見てみると、披露宴の後、新郎新婦は別々に友人を呼んで宴会を開いていたようです。連日の宴会でさぞ疲れたことでしょうね。費用は、すべて合わせると、835円62銭と記録されています。当時の金銭価値はわかりませんが、お手伝いをしていただいた方に祝儀として、3円と1円とかをお渡ししていました。

ちなみに私の生まれた、「紺屋町」という町名は以前は、「小姓町」と言いましたが、戦後の行政の政策で小姓町はなくなり、紺屋町に変更されてしまいました。生まれた町名を変更されることは、とても寂しく、悲しいことですね。。。

次回は「ガラシャの木」です。

 

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