短歌の学校一年生 (11)

初から短歌を詠み始めて5カ月経ちました。始めは何がどの様に解らないのかも判然としない状態で。今も大して変わりは無いものの、ああそうか、と思う事も多く、今回は短歌の味わい方について、少し述べさせて頂きます。

去る26日は、スーパームーン(月が地球に近づく為、通常の満月よりも大きく見える)の皆既月食でした。月の満ち欠けは海の波に大きな影響を及ぼすもので、満月の干潮時に場所によっては陸繫砂洲(トンボロ)が現れます。伊豆西海岸、堂ヶ島では、浜辺から200m沖の三四郎島に向け、波が左右に引き、海水に濡れずに渡れる道が現れるのです。

IMG_6119 (1)-1-13月の満月、トンボロ開きの頃詠んで、産経歌壇に応募したものが、スーパームーンの翌日、5月27日に載り、とても嬉しく思いました

img009-1

満月にトンボロ渡る影二つ 何処に繋がる海の細道 という一首で、“短歌の学校一年生(8)“ に既に発表済み。

新聞歌壇に取り上げられたことが単純にも嬉しくて、二人の兄達にメールで知らせましたら、“難解だ” とした感想がもたらされました。

短歌は詠み手を一旦離れたら、どの様に解釈されようが、反論はしない、読者に委ねるのが原則、だそうですが、短歌をどの様に読み、味わったら良いのかを、そもそも兄達は知らないからあのような感想になるのだと思い、思うところを書き送ったのでした。反論ではなく、短歌を味わう為のほんの糸口でもありますので、ANZ /HP にも載せさせていただく事に致します。

短歌は説明を嫌います。読んでそのまま解ってしまう歌を“ああそうか短歌”と言い読み手に想像させる深みや余地の無いものとして、良い短歌とは見做されません。5・7・5・7・7の何処かに言葉の空白を入れ、読み手に感情移入の余地を与える方が良い様です。また、詠み手と読み手の捉え方の一致は必ずしも望まなくて構わないのです。

この度の一首で、砂洲を渡れば先にある三四郎島に辿り着くに決まっている、と限定的に考えたり、また、影の写り方まで物理的に考える要等さらさらないのです。また、影を落とす二人は何処へ?行き着く先は三四郎島に決まっているではないか、では想像の余地、味わいもあらばこそ。そもそも二人の間柄によって、行き着く先は様々、想像してほしいところです。歌の主人公がすなわち詠み手、と考える必要もないのです。詠み手の一部である事は確かではあるけれど、全てではないのです。この短歌は幻想的だな、位の感想で、読み手それぞれが勝手に想像を膨らませて下さればそれで良いのですから、この短歌は少しも難しいものでは無いと思っています。

IMG_6116-1

 丁度今読んでいる本に下記のような一節がありましたので、ここに引用させて頂きましょう。すぐれた歌はそれ自身として多くの想像力を掻き立ててくれるだけでなく一方でそこからいくつもの歌に連想をひろげてくれるものだ。読者を豊かな広い世界に連れていってくれるものなのである。

近代秀歌 永田和宏著 岩波新書

短歌は読み取る力に比例して詠めるようになるものだ、とつくづく思う昨今です。読み取る力が乏しいから、まだ碌な歌が詠めない自分を思い知るこの頃、今ある力のレヴェルでしか詠めないものなのです。でも、短歌を始めた事はこれから益々の老いを生きる上で大きな支えとなる事でしょう。

詠む力読み取る力に比例して 心の象(かたち)に短歌(うた)歩み来るこれからも“短歌の学校一年生”をどうか温かく見守ってやって下さいませ。

                       令和3年 水無月 3日 うたびと ののか

カテゴリー: 新着情報   パーマリンク