巨星墜つ    打越さんへ感謝を籠めて

 “明日は死ぬかも知れないと思って今日を生きなさい

永遠に生きると思って学びなさい“ マハトマ・ガンジー

自ら実行し、それを生き抜いて見せたのが打越さん、と言えるでしょう。この箴言を教えて頂いたのは、今から約10年前で、心に深く響くものがあり、以後私も座右の銘として、この語句を書いた紙を目につく所に貼って暮らして参りました。これはガンジーの言葉と言うよりも打越さんからの言葉として、いつしか心に染み付いてしまった様な気がします。

ツィターをお始めになる以前は、ギターを弾いていらしたそうで、“アルハンブラの想い出”(タレルガ)の演奏テープを聴かせて頂いた事がありました。あの難曲を!と感心したものでした。ギターではかなりのレヴェルまでゆく事が出来た、とご自分でもお思いになったのでしょう、憧れのスペイン・アルハンブラ宮殿までギター提げてお出でになり、宮殿の敷地内でなんと演奏なさったそうです。弾いていたら兵隊さん達が寄って来ましてねえ、、、と。最高の目標にしていらしたのですね、それが叶ったのでギターをツィターに持ち替える決意をなさったと伺いました。                                                                               ツィターでもあの難曲をScharf 先生の編曲で練習していらっしゃいましたが、『ギターでのレヴェルには残念ながらまだ達していない』とご本人の弁。

(アルハンブラ宮殿でのギター演奏)

004 (2)-1打越さんは毎朝4時には起きて、まずツィターの練習を。ピアノ・アルプホルン・シュタイリッシェハーモニカなど、練習すべき楽器が沢山あって忙しい、と、いつも楽し気に話していらっしゃいました。

でも一番力をお注ぎになったのは何と言ってもツィターでした。目標とする曲目は紙に大きく書き出して、目の高さに張り出してあったものです。そうして積み重ねた努力の成果を発表なさる場は、あちこちから依頼が舞い込み、浜松の楽器博物館での演奏とレクチュアは私も拝聴させて頂きましたので特に印象深く、懐かしく思い出すものです。

(浜松 楽器博物館にて)image001

その他は、秩父宮記念公園での演奏、十里木フェスティヴァル等、『全て自分の為ですから』との言葉と共に、毎年の様に忙しく企画と演奏で地域の文化向上に尽力なさいましたので、富士の裾野の別荘地、十里木の人々は打越さんには特別な敬愛の念をもって接していたようです。

ANZ の前身、“神戸チタークラブ” の頃からコンサートには度々出演して下さいましたが、ANZ 設立旗揚げコンサート(これは神戸チタークラブから通算すると、第3回目に当たります)が2011年9月10日に芦屋教会で開催され、その時の集合写真を探し出す事が出来ました。重鎮としての貫禄がおありです。

(ANZ 旗揚げコンサート)024-1

世界的に有名なツィターの名手を招聘する事にも力を注いで下さり、そのお陰で私共は素晴らしい演奏を間近で聴き、見、知る機会にも恵まれたのでした。

特にW.Scharf / F.Golden / T.Temerson 等、彼らも“Uchi,Uchi” と親愛の情を籠めて呼び、Uchi からの話なら、と喜んで応じてくれたのでしょう。来日した彼ら名手の演奏が聴けるだけではなく、横浜のマンションを提供して下さり、直にレッスンが受けられる様、段取りして下さった事も今にして思えば大変有難い事で、日本人のツィターへの普及と向上に対する貢献は、計り知れないものがあると思います。

(Scharf 先生と)022-1

ツィターの世界で、その様に力を発揮出来る基となったのは、誰にでも誠意をもって相対するそのお人柄と、ガンジーの箴言を実行してのたゆまぬ努力、そして若い頃からお仕事の上で積み上げられた流暢な英語力にあるでしょう。

ドイツのツィター製作者、Wuenscheの下で何日もかけて修理の方法・技術を習得なさいました事も、後の日本のツィター愛好家が大層助けられたのも事実です。

ドイツ人との交流は殆ど英語で済むのですが、ひと時ドイツ語習得の情熱もお持ちになり、教室に通っていらした時期もありました。ドイツ・ツィター協会主催で当時三年に一度の開催であった2000年のWasserburgでのセミナーや2002年、ハワイで日本人の為に開かれたF.Golden のセミナーなど、これらはその後の私のオーストリア・セミナー参加の端緒となった出来事でしたが、その様な折りにも打越さんは講師のTemerson やGolden にドイツ語で茶目っ気たっぷりに話し掛け、Golden はUchiがドイツ語で話している!と、びっくりしつつも即座にドイツ語で応じてくる場面などが、今も懐かしく思い出されます。講師の方々は日本語と言えば、“お早うございます、有難うございます” 位しか言えないものですが。

(ハワイで Golden 先生と)025-1

打越さんご自身は、2006年からドイツ・Markneukirchen で行われたW.Scharf 先生のセミナーに10年間参加なさったのでした。その様な訳で、Scharf 先生とは特にお親しい間柄でいらっしゃいましたので、まず一番にScharf 先生に訃報を。 “生身の人間は、このコロナ禍で先生の基に行く事が出来ない今、Uchi のことは思いさえすれば、その人の元に飛んで行ける、どうぞ天に召されたUchi を思って下さい。“ と、お報せしたのでした。

日本では1990年代に “東京チタークラブ” を主宰なさり、活動して居られたようですが、私が打越さんとお会いしたのは、その後の事でした。

アルプホルンは杉の間伐材から作ります。打越さん自らがお作りになったアルプホルンを私が譲り受けたのが2005年、そして2009年からはアルプホルン奏者、厚木の小谷野文男さんが加わって、十里木山荘で、ツィター・アルプホルンの三人の勉強会が始まったのでした。

これは定期的ではないものの、年に3~4回のペースで休む事無く続き、去年の11月末に集まったのが最後となりました。冬季は降雪の関係で、間遠になりますが、4月にはまたお会い出来るものとばかり思っておりましたのに。

十里木山荘に着くとまずコーヒーを。お気に入りのドイツ製、美味しいコーヒーでした。それからツィターの時間。最初は小谷野さん。アドヴァイスや合奏を打越さんがなさり、次に前回から今日までの練習の成果をそれぞれが披露し、聴き合い感想を述べあう、時にはフルートのパートをCD.で流して、それに合わせて打越さんのピアノ演奏も。スタート操作の器具などは、お得意の工夫されたペダル式器具を使います。そのようにして午前中は瞬く間に過ぎ行くのでした。

(十里木での勉強会)027-1

11時過ぎに打越さんが炊飯器のスイッチをお入れになり、12時には何かしら魔法の様に、美味しいものがテーブルに並ぶのでした。

美味しいもの、と言えば、童話の世界からそのまま現れ出たかの様なバーベキューハウス、これは真ん中の火を囲んで廻りのベンチに8~10名程座れるもので、そこに入ったら、もう楽しい別世界。ドイツからお取り寄せなさったもので、2009年早春に打越山荘の広い敷地内に建てられたのでした。

(バーベキューハウス  これはドイツで、打越さんのお誕生日に招待されたバーベキュウハウスを気に入られ、すぐにドイツから材料を輸入、十里木の別荘の前の土地を購入されご自分で建てられたもの。M.E.)021-1

そこでの楽しいバーベキューパーティーに何度かご招待に与ったものです。普段の勉強会の昼食は、山荘二階のダイニングキッチンにある分厚い欅材の大テーブルで。この楽しい一方の三人の勉強会は何と10年も続いた訳で、これからはそれが出来ないと思うと、本当に悲しさが溢れて参ります。次回はチロルの真珠(Das Kufsteiner-Lied)を打越さんがツィターで、私はエルガリで披露する事になっていましたのに。

ペースメーカー装着後、かなり平常に戻られ、4月20日頃には親しかったツィター仲間に、『間もなく十里木山荘での生活に戻れそう』、という嬉しいお電話を下さいましたのを最後に、私共には誠に力強く希望にあふれた印象のみを遺して、天国に旅立ちなさったのでした。

打越さんの人生には三本の柱がおありだったと思うのです。一番太い柱は、お仕事、そして家庭。三本目が趣味の音楽です。音楽以外には、囲碁が相当お強くて、ホテルオークラ囲碁クラブにも所属なさり、女流棋士、小林千寿さんからも対局指導を受けていらしたそうですし、時の本因坊との対局経験もおありです。その頃の印刷物も感嘆の思いで拝見させて頂いた事がありました。囲碁は一人で出来る “電子碁盤” というものを愛用なさり、十里木生活最後まで楽しんでいらっしゃいました。

音楽を除く二本の柱については、私は殆ど何にも知らずに過ぎてしまいましたが、打越さんの古稀をお祝いするパーティーが東京・芝のパークホテルで会社関係の方々を100名余りお招きして行われたことがありました。ご本人を中心に、東京チタークラブのメンバーが演奏し、その祝賀会の司会という大役を仰せつかった事も、大きな綺麗な花束を戴いた様な貴重な思い出です。

打越さんの人生の柱は、どれを取っても一流である事には間違いありません。音楽は一生を通して打越さんを支える一本の柱であり、常に音楽と共にあった人生だと思います。

晩年の数年間は腰痛に悩まされなさいましたが、寝込む事も無く最後まで音楽への意欲は衰えず、ガンジーの箴言を生き徹した87年間 、私共、後輩のツィター愛好者には計り知れないお手本をお示し下さったのです。正に“巨星墜つ” の思いで一杯です。

打越さん、天国から私共をお導き下さるとともに、お守りくださいます様お願い申し上げます。

どうぞゆっくりとお休み下さいませ。                                                   心からの感謝を籠めて、追悼の言葉とさせていただきます。

2020年5月26日 石原 和子

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