Musik hat Macht. 音楽には力がある(5) 最終回

音楽の楽しみ方

 “芸術は人生のパンではないが、たぶんワインではあるだろう”

( Jen Paul 1763-1826 独、作家 ) 全くその通りと思うのです。生きるための最低必要条件を満たすものではないけれど、人生に潤いをもたらします。無くても別段支障は無いかも知れないけれど、あるほうが断然望ましいものでしょう。

『楽器など何も演奏出来ないし、音楽の知識など無い自分には音楽は難解なものだ』という声を聞きますが、果たして音楽は解る必要があるのでしょうか?

音楽には提供する側とそれを受け取る側とがあります。提供する側は、作曲したり演奏したりする人達、受ける側は音楽を聴く人達です。提供する側はそれなりの努力や苦労など、厳しさを潜り抜けた上で、楽しみや喜びに至るのです。従って、労多い分、喜びも大きいと思われます。一方、その人達が受ける側に立った時、この曲はどの様な構成である、自分ならどう演奏するか、ここはもっとこうするべきなのに、これは素晴らしい演奏だ、自分にはまだ到達出来ないナ、といった余計な意識も生まれるものなのです。それは純粋に音楽を楽しんでいるとは言い切れないのではないでしょうか。ジャズ・ロック・レゲー等ライヴミュージックの分野では、余計な意識に作用されず、提供する側としては音楽を一番楽しんでいる人達ではないか、と私には羨ましく思われますが、その人達と言えども何の努力も無しにその様になれた訳ではないのです。受ける側の人は音楽的訓練や知識を何も持ち合わせていなくても、楽しむ事は出来るでしょう。ドラマを観ていて感激し心が高揚する、こんな時、背景と相俟って必ず音楽が奏でられているものです。音楽を聴いていて心地よく眠くなる、これは誰の上にもある事でしょう。悲しい気持の時にピッタリしたメロディーを聴いて涙がこぼれたり、綺麗な響きに包まれた時、美しい風景が思い描かれたり、心が弾むような音楽を聴けば、いつしか自分の心も弾んでリズムに合わせて身体が揺れる、これは自分の感情の波長と音楽の持つ波長がピタッと合った時にこそ、その感動が起きるのだと思います。

未開社会にあっても、人間は歌い、踊り、木の実や棒を使って音やリズムを刻み,感情を高揚させて無意識の内に自分を表現してきました。現在の様に文明が高度に発達した世の中にあっても、言葉による表現がまだ未発達な幼児が打楽器やメロディー楽器の音を耳にして、奇声を上げたり自然にリズムに合わせて動き出す、という光景が見られます。純粋に音楽を楽しむ、楽しめる、という事に関しては、音楽上の経験や知識等は問題ではないのです。楽器の演奏が出来るとか音楽上の知識がある、等という事は、音楽を楽しむ上で却って邪魔になる場合もあるのです聞えて来た音楽を、“ああ綺麗、気持ち良い、今の私の心にピッタリな音楽、”と感ずる、それで良いのですから、音楽を楽しむ事は、決して難しいものではありません。音楽上の知識や経験の無い事は、音楽を純粋に楽しむ上では、むしろ良い方に作用するのではないでしょうか。

ドイツ語圏では“音楽は耳からのブランデー”とも表現します。美しい響きは、芳醇な香りと味、心酔わせるブランデーを耳から味わう様なものなのですね。余計な意識を持たず、純白な気持で音楽に接し、奏でられる音から色彩や物語を勝手に想像出来れば、“耳からのブランデー”の気分に浸れる事でしょう。

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